「陰翳礼讃(いんえいらいさん)」 ~文豪 谷崎潤一郎の美学~
私が尊敬している本好きの何人かの方が、お勧めの古典として挙げていらしたこちらの本を読んでみた。
谷崎潤一郎といえば、私は「刺青」や「痴人の愛」、「卍(まんじ)」のような、妖しく艶めかしい世界を連想してしまうが、こちらは文豪の気軽なエッセイといった感じ。
今回読んだのは中央文庫から出ている本で、「陰翳礼讃」のほか以下の随筆が収められている。
- 懶惰(らんだ)の説
- 恋愛及び色情
- 客ぎらい
- 旅のいろいろ
- 厠(かわや)のいろいろ
随筆は昭和5年~23年の間に書かれ、昭和50年に文庫化されたとき、巻末の解説を吉行淳之介が書いている。時代を感じる。
思うに、文豪は、厠(かわや)つまりトイレに対するこだわりが強い人だったようだ。トイレの話が、あちこちで出てくる。
「陰翳礼讃」は、電気照明が取り入れられ明るさが増すにつれ、日本家屋から失われていく「陰翳」、陰について文豪独特の視点で語られたもの。ここでもトイレが登場する。
されば日本建築の中で、一番風流に出来ているのは厠であると云えなくは ない。
それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂いや苔の匂いのして来るような植え込みの陰に設けてあり、廊下を伝わっていくのであるが、その薄暗い光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、なんとも云えない。
そうしてそれには、繰りして云うが、ある程度の薄暗さと、徹底的に清潔であること、蚊の呻(うな)り声さえ耳につくような静かさとが、必須の条件なのである。
こうした木造の薄暗いトイレに対し、陶器の便器にタイル張りの床、真っ白い壁の洋風のトイレは明るすぎて興ざめするらしい。
なるほど、隅から隅まで純白に見え渡るのだから確かに清潔には違いないが、自分の体から出るものの落ち着き先について、そうまで念を押さずとものことである。いくら美人の玉の肌でも、お尻や足を人前へ出しては失礼であると同じように、あゝムキ出しに明るくするのはあまりと云えば不躾千万、・・・
たいそうなお怒りである。
陰翳によりもたらされる日本の文化独特の美しさ。
独自の審美眼で「陰翳」のもたらす美しさを考察し、西洋化により失われていく美を嘆く文豪。でも、なんだか、「昔はよかった。」と愚痴っている普通のおじいちゃんのようで、親しみを持ってしまった。
あまりにも明るく、「陰翳」なんか陰も形もなくなった今の世の中を見たら、さぞかし嘆かれることだろう。
では、また次回。ごきげんよう。